いろんな子ごろごろ

奥多摩の白丸駅徒歩10分のとこにある、無垢材の注文家具工房エミケンにての、アートイベント『エミケン新緑祭り』は盛況のうちに終わりました*

お天気がとってもよくて、風がとっても気持ち良くて、工房裏の渓谷からは鳥の声、川の音。新緑の回る匂い。表の国道?県道?からは、全開ぶっとばすバイクの爆音(笑)。
天然と人間の音にきっちり挟まれるかんじで、わたしはエミケン工房内の木目の国産グランドピアノ(神奈川県のウィスタリア)と密月な二日間をすごさせていただきました。

お客さんと一緒に、その場で曲を作って演奏し、CDにしてお渡しします、という冒険に全身全霊ドボーン!
そんなわたしにしっかりつきあってくれたウィスタリアくんに、心からおつかれさま*
一緒に曲を作って下さった大きなお客様、小さなお客様に、心からありがとう*
わたしの仕事中、工作したり、川遊びしたり、たまにわがまま言いながらも、一生懸命協力してくれた息子に、心からありがとう*
影にひなたに支えて下さった多くの人々に、心から、ありがとう*
ワタクシ、ひとりでは何もできませんから。

二度目の参加である今回、私の心には前回にはなかった情熱の柱がすくっと一本ありまして、自分を取り巻く様々な音や光景が、耳の中で、目の奥で、胸の真ん中で、キラキラ回ってるように思えました。ここいいても良いんだなっていう、お尻の下にちょっと根っこがあるかんじ。
目をつぶっても、ちょびっとなら自転車こげるかんじ。
こどもたちの屈託ない一声一声に、素の心で笑えてるわたしがいて、すごーくうれしかった*

人の数だけ、詞があるなあって、つくづくつくづく、思うのでした。
予期せぬ流れが急カーブの先に忽然と現れるスリルに、覇ー!!っと気合い一発で付いて行く瞬発力は、こういう機会にぐぐん!と培われるのです。日頃の生活の中や、通常のライブのときにも培われるけど、なんといっても、知らない人と初対面で短時間でひよらないものを形にして、一緒に歌って弾いて、っていうのは、想像以上に濃ゆ〜い!時間なのであります。
こういう機会にしか、培われない種類の力、あります。

つまるとこ、精神て、枠なんて定めなければどこまでも無限なのね。と思うのでした。
そういうもの、いっぱいいっぱいゆめのばくだんのように抱えているのよね、子供たちは。
おとなは、豊かな機智をもって、ゆめのばくだんをげんじつのゆめにかえていく生き方をしたいものです。

そう、げんじつのゆめ。

だれ?あきらめることばかり教えるひとは。
だれ?あきらめることばかり覚えるひとは。
そこには社会も国も性別も年齢もないように思う。
ただ、じぶんがあるだけ。
わたしそう思う。
すぐぐらぐらするけど、そう思う。
思わないと、信じないと、やってられないから。
動けなくなる。
立ちすくんでしまう。
思うに足りるよう行動するぞーだ。
もじもじ、もぞもぞ、ういーんういーん。
道のりは、見果てぬけれども。

5/19〜20エミケン新緑まつり

奥多摩駅ひとつ手前の白丸駅から徒歩10分の無垢材注文家具工房エミケンがあります。

5月11月と、いろんな作家が集って、工房内で展示販売などを繰り広げるアートイベントがあります。

わたしの以前の音楽友でイラストレーターで双子のママのオミットメントさんが参加していたのをきっかけに、昨年秋の紅葉祭りから出展しています。

屋号は『よっちゃんぴあの』。その場で、お客さんと曲を作ってCDにしてお渡しするという企画♪

いい曲生んでみせますよ*

昨日、息子8歳になりました。15:26が出生時刻です。誕生から8年後のわたしは、誕生会の準備におわれていました。

たくさんのお友達がお祝いに来て、大変な大騒ぎで、最高のお誕生日になりました☆

片付けにエミケン準備に追われ追われて大遅刻。ただいま白丸駅めざして青梅線に乗っております。

今回の作家さんは、木工細工、イラスト雑貨、アクセサリー、靴や、古道具屋など、ジャンル様々。

夜はみんなで、寝泊まりして、手作りのビールをいただいちゃったりします*

中央線、三鷹〜武蔵小金井、今日14時から、明日始発〜7時まで運休したりするみたいだけど、すてきな緑、すてきな工房にぜひおこしくださいませ〜☆

あなただけの一曲、一緒に作っちゃいましょ〜☆

ひとつ(螺旋)

時間というのはふしぎなもので
みんなが当たり前の様に基準にしているけれど
はかっているけれど
何処にも見当たらないのだ

螺旋階段のように、一所を少しずつずれながら、一周する

もしきちんとつじつまがあっていたら、同一線上をちょうど回りつづけるのだから、進みも戻りもしないただの一陣の輪っかになるところだろうけど、進んでる以上、やはりそこにはあわないつじつまがあるということだと思う。

継続するということは、結局、不完全であるからこその恩恵であると思う。

5/14、わたしはひとつ大事な一周をしたのです。
その螺旋はとても些細なようで、考えられないくらいの進化でもあって、
時間のもつ、美しいほころびにそっと手をつくことができました。
ほころびは、あったかかったです。

時間というのは、わたしを焦らせるものではなく、置いてけぼりにするものでもなく
閉じ込めるものでも、便利なものでもなく
生み出してくれるものなんだと思った。
焦らせたり閉じ込めたり、そういったものは時間の軸についた藻みたいなものではないのかしーらかんす。

時は金なりっていうけれど
鐘なんじゃないでしょうか。
誰しもが持つ、胸の奥に内蔵されている、ちいさな赤いフルパワー。
「なんとなく」「ふつうこうだから」
人間が作り出した感覚は、時間とはほど遠いところでテンデンバラバラに点いたり消えたりする。
常識なんて浅はかなものだ。
演歌やジャズなんていうカテゴリーで音楽を語ろうとするようなものだ。

音楽も、鐘だ。
鐘あればこそ、息吹がある。
息吹に運ばれて進む先に、螺旋の先は新しく割れて芽吹くころだろう。
そしたらそこには、どんな時が鼓動しているだろうか。

知らない世界に足を踏み入れることこそ、時間の恩恵を受けるということなんじゃないだろうか。

誰もがいま、各々の最先端にいるのだ。
剥き身の、吹きさらしの、武器をもたない赤い肉として。
わたしも。
わたしはいま、しゃべったことのない単語をひとつふたつみっつ並べて、今日が暗くなるのを体中で感じている。
黒砂糖の甘みや、干しいちじくのザラザラ感、
土の抵抗や、子供の柔らかないたずら。
頭について離れないメロディーや、うまく水のはけないトルコ製の琺瑯の赤いジョウロへの愛情。
星が何光年という科学者の日夜の功労に乗っかって、いまパソコンに向かってるコト。

ひとつずつ、ひとつずつ、月に近づく。
必要なものは、自分の外側には無い。
内側にも無い。
きっと、共有しているのだろう。
本人の知る知らないとは関係ないところで。

時ちうのは、なんとでっかい河なのだろうか。
流れ着く先の海は、いったいどんだけでかいのか。
どんだけ自分は、ちっこい豆太郎なんじゃろうか。
途方も無さ過ぎると、愉快になってくる。

掌の感触が、指先の記憶が、緑の濃くなる葉っぱがザアッ!と風に揺れる様に、自分の内側に倒れ込んで来る。
蓋をしていた場所に、時の甘露が洪水になってやってくる。
窒息しそうだけど、微笑んでいる自分がいる。
不安だけど、スターティングポーズしてる。

ひとつ螺旋を一周できたのは、ひとえにあなたのアナタのおかげ。

吉祥寺の夜と雨と品川

Photo

吉祥寺曼荼羅2で、パーカッションのくどうげんたさんとライブ。
リハーサル後のこじゃれたカフェにて、ベビーリーフやアスパラ、ズッキーニの乗っかった、サッパリ目の小ぶりなピザを食べました。
最後のほうで、「品」に似たピーマンを発見。
ほかのピーマンちぎったら、品川ってできるんじゃない?って提案、乗り気の息子が「川」を制作、できあがりました。
品川を食うぞ!
Photo_2外では、急に荒れ模様の空、雷がビカビカリ。
二階のカフェではベースのドムドムいうソウルみたいのがちゅうくらいの音でかかっており、低音同士が相殺するのか、雷の音があんまりきこえないのだった。
もったいないな、と思いながら、外をぼんやり見ていた。

隣の息子は、ぱくっ。ぱくっ。
「おかあちゃん、これ、きゅうり?」
なにゆうとんねん。
でも、わかるような気もする。
香りや見た目で、味って意外と思い込みでどうにでも片付いちゃうのよね。
「川」の短い一本をゆびでつまんで食べるようなことしてたら、野菜ってコト以外判別しにくいかも。

曼荼羅2はグランドピアノで良い。
ただ、音の鳴りがカコーンっていう。
乾燥気味というか、シャウトする体質になっちゃってる。
「ねえ君、そんなすぐアー!って全開ならなくっていいよ」って言い聞かせてふわっと触ろうと試みるんだけど、
「イヤ、くせでつい、叫んじゃうんすよ、ア!す、すいやせん。あ、あ、アー!あ〜どうもこれが俺のスタイルなんで」なんて言ってる。
ちょっと胸が痛むの。
いろんな人がいろんな弾き方するからなあ。
それでもわたしは、その体なり、喉なりの真ん中を押す様に心がける。
これは自分が自分として弾く時の、妥協できないところだ。
無理に鳴らしたりするのは嫌い。
遠慮して鳴らさないのも嫌い。
ピアノを弾くということは、樹(というからには雨土日光ももちろんのこと)と鉄と空気と人間の相互作用だと思っている。
Photo_3
いつものアー!じゃないところで、ピアノにも冒険をしてもらいたい。なんて高飛車なことなのかもしれないけど、思う。

思えば、いつも自分は、いつも後ろで音を聴いて追って判断して鳴らすようにしてきた。
でもそればっかりでもいけないんだろうなって最近思うことがあって、
今回は、タイでやってみようと心がけた。
音の出るのを待つ姿勢は抱えながら、自分の頭の中で、先に音を構築して前から挑む感覚だ。
そうしないと、呑まれる。
自分というものを、無意識の自分に呑まれるのだ。
最大の味方と最大の敵を自分のなかに抱えながら、融和できるポイントを探しているうちに、1曲が終わるというかんじだった。いつものことなんだけど、いつもより濃く。

げんたさんの音や、意図、その場の呼吸みたいなものとも、融合していかなければいけない。
いけないというか、そうじゃないと意味が無いというか、
そうであってこそ意味があるというか。
相手に伝わってこそ、相手も手の出しようがあるというものです。
自分の音を相手に伝えるには、自分が自分を前に前に押し出していかないと始まらないのだ。

前よりはできたと思う。
うたも、ピアノも、前より良かったと思う。
げんたさんとの合奏も、成り立ってた部分が多かったと思う。
今回はこれで良いと思う。

あとから演奏したバンドは、わたしよりひとまわりほど若い、容姿端麗すくすく健康的な「ぼくたちいい音響かせたい」3人編成メンズ組と、わたしよりひとまわりほど年上のぼてっと重たい、「ぼくらあ、それぞれずうっとロックして参りました〜」な3人編成オヤジ組。

ねえねえ、どの人が一番かっこいいと思う?と息子にたずねてみたら、好みがお互い違って面白かった。そういうやりとり、いろんな子供たちとするんだけど、総じて子供はストレートアヘッドなかっこよさが好きなんだなあ。
赤レンジャーが好きなんだよな。
わたしはやっぱり、青レンジャーなんだなあ。みたいな。
赤レンジャーは、なんか、信用できない(笑)

オヤジ組見てていろんなこと、思ったな。
男の人っぽいサウンドって、繰り返す美学なのかなとか。
安定してる記号的なもの?
四角いというか、枠というか。
基盤がまずありきで、色々な基盤やパーツで基地を作って、で、そこを壊してみるっていうか、飛び越えるっていうか、作れるものを壊して遊んでる様な。
安全にキケンを楽しむ方法。
みたいな。

ちょっと哀しくなる。
ちょっと愛おしくなる。
きれいだと思いながら、ずるいとも思う。
わたしもそっちだったら楽だったのに。
非建設的な情緒に陥りそうになる。

曲の構成がきれいだったな。
爆音が爆音に聴こえなかった。
ベースラインがきれいだったな。
とっても楽しそうだった。
動きや音や声がちゃんと一体で気持ちよかった。
等身大って、なかなかないんだ。
こういうふうに自分を出せたらいいなあ。
こういうシャワーを浴びることはとても大事なのだ。
なかなか子連れでライブハウスは行きづらいのだけど、
機会があったらまた見たいな、曲の流れをちょっと覚えたいと思った。
すごく珍しく、演奏してるところを描きたくなって、
描けるとこまで描いて、渡しました。
きっと、その人が一生懸命生きて来た某かが、わたしに某かをくれたのだろう。
自分に責任を取りながら、でこぼこまっすぐ地に足をつけた大人がいることは、わたしにとって、とても大きな支えなのです。
孤独を抱えるリスクと、表現できる恩恵と、どちらも天秤にかけることなく、素で渡っていける強さがほしい。
チキショー培ってやる。

息子、爆音のなか眠りました。
息子の肉厚なピンと立った良い耳に指で栓をしながら、わたしは次々と差し出される景色を聴いてました。

そういえば、オヤジ組のはじまる準備のあいだ、いろいろな曲が流れてるわけですけれども、女の人の声のカバーでビートルズのイエスタデイが流れてて、涙がじわん。アメリカ映画見て泣いちゃったみたいな敗北感味わいました。

炊かれたきのこみたいなぐにょぐにょな感受性のときは、冴えないショボフル雨でちょうどいい。
ぴかる満月なんてみたら、この世なんかどうでもよくなってしまう。
自分で栄養を毒にして、覆い被せてしまうような時を、この先いくつ乗り越えなくっちゃいけないのか。自分に辟易する。
子供のあんぱんまんみたいな可愛らしい顔や寝息が、針の様にささる。
それでも抱いて寝汗を拭ってる自分がいる。
行動と気持ちが両サイドに引き裂かれそうだ。
母性は自動装置ではない。
ルーティンワークを遂行するために内蔵されてるのではない。
愛は意識されようとされまいと、おのずと埋め込まれているのだ。
酷だ。
でも無かったらもっと酷だと思う。
ハッピーなだけの幸福なんて、どこにもありゃしないのさ。
己の手で掴み取っていかなければね。

「きのう」なんかに涙する趣味の悪い人になりたくない。
なんて思って生きて来たわたしは、いったいどこまでかくれんぼうなのだろう。
肉は焼きすぎると硬くなる。
水に浸かってしまいたい。
そのまま溶けてしまいたい。
消えてしまいたい。
この感覚。知りすぎるくらい知ってる。
お別れがやって来たのだ。
ココから又一個、スタートラインだってことだ。
いさぎ悪い私は、二の足を踏んでいる。
どこまでいったらほんとの自分に触れられるのだろう。
ずいぶんといろんな洞窟に潜り込んで来たんだね、キミハ。
キミのことなんて、どうでもよくなるときがあるよ。
キミハ透明のテグスだ、なにも見えないよ。
だのに急に引っかかるんだ。
どっかいってくれよ、もう、もう、もう。もう。

そういって、三日後には、スタートを切ってるような、そんな繰り返しだ。
生きよう、一日を、一時間を、一分を、一秒を、一瞬を。

ぷち変化

変化①
『プチトマトの湯むき』
……………
カジュアルなフレンチレストランで友人とご飯食べたら、
サラダにプチトマトが一ヶ君臨していた。
なんかマットだなと思ったら、湯むきしてあった。
そしてたぶん、ごく薄味なだしか、オイルか、浸けてあったのだと思う。
感激の美味しさでした。
独特の「プチッ」ビニール噛んだみたいな食感ではなく、「ざくっ」。繊維の恩恵を歯で感じることができます。
トマト独特の青臭さはなく、ただただ甘く柔らかく、乙女のような酸味がちょっぴり覗く。
う〜んとってもフルーティー*食べられる宝石*ってかんじ〜*
これは、トマト嫌いの息子も、きっと美味しいっていうような気がする!

帰って、早速、茹でてみた。
一瞬で皮が弾けて面白い!長湯は無用。
あとは皮を取り除いて、タッパーに入れるだけ。
皮がつるつる外れるのがまたおもろい。
タッパーには、
めんつゆ希釈液でも
塩少々のオイルでも
なんかハーブとオイルでもなんでもよいと思う。
冷やして、めしあがれ。
単独でももちろん、ひややっこ、焼き魚に、ちょっとしたつけあわせにもなりまする。
ビールや日本酒のおともに、モッツァレラチーズと合わせて、いかがっすか*
最後は浸け汁もろとも、冷製パスタなんかにババンと使ったら、夢の国に飛べるでしょう。

そういえば、コユビトが「トマトは湯むきに限る」って断言していたなあ。
またまた〜グルメちゃんは味覚が敏感なんだから*くらいに、言葉尻だけ聞いて、ちっともなびいてなかったわたし。プチトマトがそんな劇的に美味しくなるわけないじゃない。なんて思ってた。
ごめんよー。まさかほんとに、こんな美味しくなるとは思ってもみなかったんだもの。
人の話は先入観なしに、まっさらな気持ちで聞くべきだわ。
プチトマトとの出会い自体があまり幸せな形じゃなかったからなあ。
無理矢理食べさされて、しかも美味しくなかったのに吐き出させても貰えなかった。
という切ないシーンが思い起こされます。
もしかして、脳の片隅で、プチトマト美味しいって認めたくないってケチンボなこと思ってる小さなわたしがいたのかもね。

彼によると、関西のほうでは、トマトの冷やしおでんなるものがあるらしい。
たぶん、この湯むきの、もっと品の良いバージョンなのだと思う。
おでん自体が、普段わたしが知ってるものとはちがうものらしいのだ。
具をこべつにくつくつと煮てある小料理らしい。
いわゆる一般的なおでんは「関東炊き」っていうんだって。

って、なんでおでんていうのだろう。
おでんなべが四角く、田んぼの田の字みたいに、くぎってあるからかな?

おもしろいサイトみつけた♪
おでん博物館
いろいろあるのだなあ。
インターネットってすごいや。


さて、息子は湯むきしたプチトマトを食べるのか?
「だまされたと思って一個お食べよ」
という私の顔色をうかがいながら、おそるおそる一粒、口に入れ、噛む…
目をきゅうっとつぶって、頭をふりはじめました。
「どうした、あかんかったか?出せ出せ!」万一のためにレスキュー小皿を用意していたわたしの手をはらいのけ、
「お〜〜いし〜〜〜〜い!!!」
とちゃぶ台の前で箸を震わせていました。

<証明>
生トマトと、湯むきトマトは、べ・つ・も・の*


変化②
『近所のこどもたちと友達になる』
…………
こないだのこどもの日から、近所の子供と親しくなり、ずっと一緒に遊んでいる息子。
越して来て一年、なかなか仲良くなる機会がなかったけど、近所の子がひとりでサッカーボール蹴ってたので「一緒にやらない?入れてくれる?」って声かけてみたら、一瞬でうちとけた。
子供の素晴らしいところよね。
「やろうぜ」「うん」「じゃあけるよ」「よっしゃー」
前置きも語尾もいらない、真ん中のみのつきあい。
「またね」「うん」「あしたもあそべる?」「たぶん」「ばいばい」「ばいばい」
大人は、こういう子供の優れてるところを、今更といわずに積極的に見習うべきだと思う。
家の前の路地は狭いのだけど、抜け道でもあり、結構車が通るのだ。
あぶないので、たまに様子をみに表へ出る。
きのうは混ぜてもらって、いっしょにルールを考え、障害物競走をやった。
こどもの笑い声って、この世でいちばん美しいかも。

変化③
『家庭菜園』
…………
農協の直売会に行き、野菜苗を買って来て、栽培し始めました。
栽培は、苦手です。
内心がじくじくするの。
枝を掻き取ったり、支柱を立てたり、受粉させたりっていうことがすごくつらい。
うちの親はまめに園芸やるひとたちだった。
野菜じゃなくて花だったけど。
後ろ姿を暗い気持ちで見てた。
ちぎったら、痛いよ。
はがいじめは窮屈だよ。
その子の将来をあなたたちが決めないで。
人間の横暴だって思っていた。
栽培される側に、自分を投影してしまうのだ。
私の五官識には、植物の喜ぶ気持ちが見えなかった。
自然のままにしてあげてよって思う自分の思い込みがつよすぎて。

種を取る段階から、人の手が入ってるわけだ。
苗になるまでにもたくさんの綿密な人の手が入っている。
それを仕事にしているコユビトを通じて、ほんの少し、その大変さや、作業にたずさわる人たちの、植物に対する愛情がわかってきたから、ちょっと、やってみようと思い立ちました。
栽培にあたっては、やっぱりきちんと手を加えないと、作物としては、うまく生きてけないようになってるんだろうなと思う。

枝などを掻き取るのは、散髪やひげそりのようなもので
支柱をたてるのは、まだうまく歩けない我が子に手を添えるのとおなじことで
受粉を手伝うのは、せっかく育ったことを、充実した集大成をもって、実感してほしいって応援すること…

そんなふうに、考え方を鞍替えしてみた。
不慣れだから、すぐにまた暗い方へ引っ張られるけれど、
自然にっていっても、私自身自然に育ったのかと自問自答すれば答えは明白なこと。
美容院にいくでしょう。
おいしい料理を好むでしょう。
音楽も恋も大切じゃないですか。

本人ののぞむようにということは、放置することではないですもの。
必要な手助けを、必要なときに、必要なだけ施すこと。
それに、人間の手は神の手じゃない。
どんなに届けようとがんばったって、うまく育つ育たないは結局自然の算段だものね。

努力というのは、裏も表も、自分のためではないのかも。
そんなふうになれたら気持ちいいだろうなあ*
気持ちを解放したい。

なにげない思い込みのひとつひとつが、自分をへこませる。
自分で自分をへこませてるなんて、バッカみたい。
たとえば植木鉢栽培な時点で、自分は植物をこんな小さいとこに閉じ込めて、まごうことなく横暴だなんて思ってしまう。
それはそのまんま、自分が親の枠のなかに閉じ込められているからです。
親にされたアレを、自分も他に対してやっているって思ってしまう。

物事をはかるときって、どうしても自分の経験と照らし合わせて比較判断しますよね。
自分の体験が貧しいものであればあるほど、選択肢もおのずと狭いものになりがちなのです。
自分に豊かな経験がある分野と、ボロボロに痛んでる分野では、雲泥の差があります。

育てられること。
愛されること。

そういう分野でわたしの中心は非常に弱い。
愛情や命に関わるその分野は、わたしの生き方をのものを束縛する。
振り払っても、振り払っても、どくどくと生き物のように泥が噴き出して来る。
追っ手から逃げたい。
追っ手にも施したい。
ほんとうのぬくもり。
ほんとうのきもち。

暗い過去に、この先も閉じ込められ続けるのかい?
閉じ込めたのは他者でも、
出たいなら扉は自分で開けなくちゃはじまりません。
なんで自分でやらなきゃいけないのって、泣きたくなるきもち。
でもそれじゃだめだ。
理不尽きわまりなくても、そこでドアをあけなければ、魔物の思うつぼです。
いちばんの仕返しは(?)どのような過去がわたしを縛りつけようと、軽やかに自由になって、しあわせになることです。

自分の施された毒に縛られて、明るい未来への施しと毒を混同してしまう。
終わりもはじまりもない重たい道。
行くべき先はどこなのか。
自分に取って必要なことは何なのかを見る機会を奪われてきたから、参考になるものが目の前にあっても、気付かなかったり、聞き逃したり、悲観して見失う。

湯むきプチトマトの一件だって、そうなのよね。
視点がのっけから建設的じゃない。
いや、視点になる前段階から、なにかこう、行く手を阻むものがあるのだ。
地道だなあ。

栽培そのものが、自分をとリまく社会の縮図っていうか、社会に対する自分の思い込みの縮図なのかもしれない。
どこまでが愛情で、どこからが横暴なのか。
大切に扱うとは、扱われるとは、どういうことなのか?
植木鉢のなかの自分(苗)に問いかけてみようと思っています。
現実的なアドバイスは、いろいろなサイトもあるし、近所の家庭菜園やってる人にも聞ける。
農協も近いし、農家に直接訪ねてもよいと思う。
コユビトにも。
いろいろ参考にさせてもらいながら、あたたかい栽培をしようと思って、今朝も水をやりました。
そのうち肥料もあげられるはず。

かならず、収穫を得るぞー!


変化④
『調律』
…………
今年もマイフェイバリットピアノ、ゴトウくんの調律、ぶじに終わりました。
今回は、たくさん狂っていた。
いっぱい歌ったんだね。ゴトウくん*
ようやく、ゴトウくんにお喋りをさせてあげられるようになれたかね。
長かったね、ゴトウくん*
ゴトウくんとは、18年のおつきあい。
調律師のダンディー岩尾さんとは、16年のおつきあい。
いまだもって、よくわからないお人なのです。
年月とともに、いっこうに距離が縮まらない。
調律の2時間、一年に一度の逢瀬だからか?
いや、ひとえに岩尾さんが変わり者なんだろう。
毎年なにかひとつ、発見する。
今年の発見は、
『岩尾さんは、意外と甘いものがお好き』。
20年ちかくおつきあいして、こんな初歩的発見事項。トホホ。
いっつもすっごいスリル満点なんです。
お茶うけなににするか。
今回はけっこう、冒険してみたつもりだったのでした。
洋風の薄皮どらやきに、桜餡と生クリームが適量挟んである和風洋菓子『桜ブッセ』。
桜の時期限定。
国立マロニエだけで製造販売っす。

淡々と召し上がって、帰られた。
あんまりお好きじゃなかったのかなあと、やや寂しげに思っていたところ、
後日、岩尾さんを紹介した他のお宅の方から、
「岩尾さんて、餡コものだいすきよね。毎年がっつり食べていかれるよねえ」
ってお話があって、えーっなんだ!そうなの!?知らなかった!って大爆笑。
美味しかったんだったら、一言ゆって、にっこり笑って下さい。お願いします、岩尾さん。
そんな掴めない岩尾さんがだいすきです。
これからも、お元気で*
調律末永く、お願いします。


変化⑤
『黒髪』
…………
数ヶ月ちょっと赤めの髪にしてたのを、もとの色に戻した。
わたしって、どんな髪が似合うんだろう。
いまだにわからない。
鏡みるたび苦悩する。
めんどっちい。
この煩悩から抜け出たくて、坊主にしたこともあります。
つんつるてんじゃないけど。
でもだれがどうみても、坊主だった。
はさみでカットしてもらってたので、美容師さん大変そうだった。
とっても上手なひとだったなあ。
親の介護で地元にもどるということで、退職していった、凄腕美容師さん。
名手は、有名じゃなくたって、そこここにひっそりキラリと生息してるものなんだすよ。
鋭い感性と爪は、他を引っ掻くためじゃなく、自分を磨くためのもの。
磨かれた自分から発される生産物が、この世を照らすのだ。

地元で、切っているかなあ。
切ってたらいいなあ。
わたしも引っ越しながら、弾いてますよって伝えたい*

…………

闇が光を創り、光が闇を創り、空を青くして白くして、真っ赤に震える母なる海に還る。

日々発酵。
日々変化。
自由自在に、お互い生きていく。

さよならガジャンゴ☆マイスター

今度の5/13で閉店する、目黒の美容室GAYANGO『ガジャンゴ』主のホアンさんブログ。
HPはもう閉じてありました。ガーン。そうですよね。さみしいものですね。
わたしの一番熱い日々ギュッと凝縮二年間をここの髪で戦い抜きました。
ここが見つからなかったら、わたしの人生は別のものになっていたでしょう。
生きることはたたかいだ。
といっても、闘争ではないのですよ。
変化を恐れないこと。
波を楽しむこと。
能率に抗ってみたり。
時を迎え入れ、打っていくこと。
男であり、女であること。
立ってみること、座ってみること。
思い描き、信じて、決断すること。

そゆこと、ガジャンゴは無言で共有できる場所でした。
というか、そういうエキスがそこここに転がってました。
拾うのも、眺めるのも、賛同も反対も、君の自由さ。風が吹く。窓が開いているから。

守りに入ったら、流れに乗っかれなくなる。
時を止めて、そこに安住するのもひとつの生き方、だけどわたしのすみかはそこではない。
善し悪しじゃなくて、向き不向きとか、好みとか。目玉焼きに醤油?ソース?塩?ケチャップ?なにも要らない?みたいなもの。

ガジャンゴ、運命の出逢いと、別れ。

心から感謝します。

でもね、わたしの髪を主に切って下さっていた美容師さんは、東京に残るのだ(ホッ)。
ガジャンゴ跡地で、別の美容室が開店するということで、そこのオーナーが知り合いだということで。店は変わるけどそこで引き続き切るという、あまりないケース。
ホアンさんは故郷の博多にて新店オープンされるということで、九州いくことあったら、訪れたいと思います♪

絵も縫い物も皮加工も、なんでも玄人真っ青な真剣さでやっちゃうホアンさんのことだから、きっと新しいお店も、身近でありながら発酵爆発をミクロに続ける場所を創り続けて行かれることでしょう。
素敵なお店にならんことを、応援してるひとのひとりとして、わたしもコレからの自分をオトコマエにオンナマエにドンブラコッコしてゆくことを、ここに誓います。

最終日に飲み会やるらしいのですが、仕事も予定もあるんだすねー。
4月末に切りにいったとき、さよなら言って来たから、それで有終の美とする。
ものごとのはじまりと終わりは、正しければ正しいほど日常に溶け込んでいて、突然すぎて気付かない。知らないうちに、ぽちっとはねた、Tシャツのしみにあとからあれっ?て気付くみたいに。

過ごした時間は、息もできないほど密度が濃くて、そのくせ振り返るとサラッと残らなくて、切れ目も境目もなくて、ただ人肌にあたたかい。別れさえ、優しく用意された新たな出逢いのような気になる。
あー愛だなあこれはきっと愛。
互いの間に、チチチチチと時限爆弾のあの『音』が、ずーっと生み出されてるかんじ。
目に見えるお別れには、擦り傷みたいな切なさもある。でもちっとも孤独じゃないんだ。
それはきっと、ぜったいに途切れないもので繋がってる安定感なのだろうと思うのだ。
不思議な感覚なんだ。

真っ赤な場所だった。生きてる場所だった。生きてるってとても不格好。とってもコミカル。
はげもすれば、でぶもする。鼻水だって涙だって、星になる。いつだって、キラッとしてる。私たちは、美しい。誰だって、宇宙全体で、たった一人。断然、かっこいい。

* * *

果物コスメ、いろいろ試し続けてます。
おすすめの一品は、だれにでもできる!ただおろしてしぼるだけー*

『スイカ入浴剤とパーーック!』

すいかを食べたら、ジャーって洗って、おろし器で皮ペラペラになるまで果肉をおろす。
ザルで漉す。水分だけを瓶に入れる。
漉した後の繊維も、ぎゅぎゅっとしぼって、水分しっかり出してね。

ペラペラ皮と残った繊維で、天然パック。
繊維をTゾーンに、皮をまぶたや唇、ほっぺに。超〜〜〜気持ちいい。外してびっくり、なんとも清々しく、瑞々しくなるよ。

保存した水分は、おふろのとき入浴剤にする。塩をまぜといても良いですよ。でも敏感なひとは果汁だけでよいと思う。
めっちゃ発汗作用あります。肌もキュキュッとしまりますよ*

ろーしょんとして肌に直接つけるには、作用がちょっときついようです。入浴剤がちょうどよさそう。
あと試してないけど、この水分は、マウスウオッシュにも効果的ではないかと思うのです。
口臭や炎症に効果ありそう。
瓜の臭いがだいじょぶな人は、お試しあれ。
よしこはちょっと、尻込みです。


ああごみも減って、肌は快活。

コクトー

黒糖。
深夜のコーヒーブレイクのお伴。

こどもの日♪
鯉のぼりとかぶとの日。
近所の大好きなケーキやさんに行ったら、午後一時だというのに鯉のぼりロールが全て売り切れ!
うっそ〜ほしかった〜!
でもカブトの形をしたチョコレートケーキもすてき。
ホールではなくミニサイズを買って帰った。
和菓子屋さんでは柏もち。
花やさんでは菖蒲。
ギンギンの天気。

小さな鯉のぼりを持って、ニコニコで走りながら素敵なダンスを飄々と踊る息子の長い足に、雨上がりの強い陽射しがアスファルトから反射してはりついている。初夏だー。

以前住んでいた家で飼っていた猫が、今朝、死んだという知らせを元夫より受け取った。
焼く前に会いにいった。
車のシートに、段ボールがあって、中に10年生きた体が入れてあった。
タオルに包まれていたので、そっととって触れた。
臭かった。
痩せていた。
可哀想だった。
車をとめといてもらって、お花を買ってきて、入れた。
毛だけ柔らかくて、感情とは別の出口から抜け出た「猫っ毛」っていう言葉が、騒がしい駅前の空に立ちのぼっていった。
小さな軽い不幸が、みすぼらしいさようならさえ箱の中に封じ込められて、静かに呼吸しているようだった。

こどもの日。毎年思い出せる日。
身近ないのちがなくなるとき、最後っていう表現が、いつも腑に落ちないでいる。
なにか途切れたような、ひっかかっているような、途中から抜け落ちたような、あれっきゅうに音がなくなってただ視界に青空。なにが終わったというのだろう。おっかしいなっていつも思う。

わたしは死について割とよく考えるほうなんじゃないかと思う。
きのうもその前の日も、考えた。
というか毎日考える。
顔洗ったあと鏡を見ながら、朝せわしくなべに煮立った湯に大根を入れながら、どんなに長生きしたって、あと70年したら、確実にじぶんはこの世にいないなって。
60年で100歳。もしかしてイキテルかも。
50年で90歳。運が良ければまだいるかも。
いやあ15年くらいで終わるかもよと考えると、あーあいくらも一緒にすごせないんだなと思う。今触れ合ってる、全ての人たちと。
共有できる時間は、知れている。
15年もなにも、事故で、災害で、今日が最後の日かもしれないのだ。
そうすると、なんでもないメールひとつにしても、気持ち的になんでもなくなく大事に返せる。

最後に「しまった、アレ」と思いたくない。ひとつとして。
明日は、だれにも約束されていない。
一日一日が奇跡なのだ。

猫の動きは今日までだった。これからは抜け落ちた砂時計に空を映す。雲がたなびいてゆく。
わたしたちには花を買う時間が続いており、家に戻ってからは昼には昼食を、夜には夕食を食べた。
柏餅にケーキも食べた。
われわれの胃袋には時間とオレンジ色のエネルギーが蓄積されていく。
猫とわたしたちは確実にひらいてゆく。
眠る前、読経をした。
100日かけて、猫はニャンニャンと虹の世界に行脚するのだろうか。
さようなら。
いままでありがとう。
どこかうそくさい。

5/1、わたしはいままでの人生史上初の体験をした。
『なにも考えず、床に寝転んで伸びる』
なにもかもからっぽだった。
考え尽くした。
感じ尽くした。
伝え尽くした。
泣き尽くした。
ぱたんと倒れて、数秒。あっいま自分なんにも考えてなかった。空白だった。
すごい嬉しかった。
そういうふうに寝転ぶの、幼い頃からの夢だったのです。
寝転ぶって無防備で、無心でできることってなかったのです。
必ず身構えていた。
何か考えていたり、はりつめていたり。
そんなわたしが、40年かけて、ぽてっと物体になったその一瞬。
じぶんが、とても愛おしかった。

種はこういう気持ちで殻を破るのかもしれない。
茎は、こういうきもちで伸びるのかもしれない。

なにも言えない植物は、ただ無心に伸びているようだけど、
耳を澄ますと、渦巻く叫びが聴こえるような気がします。
アサガオの芽だろうと、杉の大木だろうと。
ウオアあああああああウンギャあああああああー!!!!!
絶えず駆け巡っているはずだ。
轟々と、重力に逆らって水を吸い上げる音、伸びる音。

無心で寝転んだ自分の体内に、内なる声が逆巻いてた。
静かなる動。


果物食べたあとの皮なんかで、化粧水やパックなどを作ってみている。
スイカの食べたあとの部分をおろしてしぼってみたり、ショウガと黒糖を洗面器にはったお湯に入れてスチームにしてみたり。
これが以外と良いみたいで、日焼け止めクリームとか、浸透しにくかったものも、すいすいお肌に吸収するようになりました。

先日岸本セシルっていうモデルさんを雑誌から知り、すっごい元気をもらったのです。
なあんだ、カワイイっていいことなんじゃんって思った。当たり前ですか?
女の子の時間をのびのび謳歌することのゆるされなかったわたしにとっては、ちっとも当たり前じゃないのですよ。
私はこどもに可愛い、かっこいい、大好きよっていうようにしてます。
ほんとにそう思って言ってる。
親がこどもの未来を摘むようなこと、あってはならない。
可愛い大好き良い子って言われて育ちたかったな。とぽそっと思う。
時間も記憶も戻らないからこそ、自分で自分を運ぶしかない。

疲れた時、表情が消えそうなとき、ちょっとばかみたいだけど、「セシル、セシル」と呪文のように唱えて、気持ちを切り替えていく様にしている。
かわいくなるのは、いくつになっても女の自由。
よい笑顔は、努力がもたらすもの。
どんな境遇でも、自分の表情は自分の責任ですから。
不幸を、誰のせいにしてもいけない。
幸福は、誰のせいにしてもいいと思うよ♪

わたしがワタシ的であるには、死について音楽について、愛について料理について、アレコレ考え迷い、じたばた怒って泣いてモガイて、培うしかないのだと思う。
いまいちど、自分を洗濯いたしたく候。なのである。ゴシゴシ、ジャバジャバ、まだまだ、まだまだ。
かといって、自分だけ白くなって環境に負担をかける漂白剤なんか使いたくない硬派なワタシなのである。
そんなことしたら、気持ちが痛み黄ばむ。
キレイということは、傷シミ一つないということではないと思っている。
そうやって寿命までピンと真っ白でいられたら、灰で花が咲かせられるような人であれたら。

未だ見えざるモノを見、聴こえざるモノを聴くことができるのは、力の限りを尽くした者だけであると、仏さまはおっしゃっているのですが、そんな境涯のいくつ分の一にも充たないけど(幻影幻聴ではありません)、きっと自分は今、尽くしてのち訪れる幸いの一粒一粒を噛み締めているのだろうと思っている。


『菩薩の妙音を聴くことのできる人は幸いである。
しかし人の言葉を聴くことができなければ、菩薩の妙音を聴くことはできない。

父母の言葉を聴け。
夫の言葉を聴け。
妻の言葉を聴け。

すべての者の言葉を聴け。

忠言も
苦悩や病者の呻き声も
感激の言葉も
憧れの言葉も

菩薩の妙音は恐らく
人間的な呻き声のうちに
人間的な苦悩のうちに
潜んでいる』

聞くではなくて聴く。
相手の命令に従うのではなく、相手の中に自らを進み入れて、心の全神経を体全部で傾けて、耳を澄ます。
きこえてくるのは、ききたくない音ばかり。
でもそれは表面の音にすぎなくて、本当の響きはその奥にひっそりと滔々とあることにある日気付く。
認めたくなかったり、聞き逃したり、見失ったりしながら、
徐々に徐々に、やがてどんな雑音のなかにあっても、その音を探し当てられる耳になってくる。
そうすると、むしろ、その雑音あったればこその妙有なのだとか思い出し、
雑音に感謝の念が湧き水のように生まれて来たりもするから不思議だ。
地獄と極楽は別世界なんかではないんだ。
もうだめだ。
もうだめだ。
もうだめだ。
何回も心を苦渋で織って、
諦めの糸を何度も繰り直して染め直して撚り直して、
朝なんかこないと思っていた日々に光が射す。
光にむせびながら、拒絶したりして、なかなか人間はむずかしい生き物だってゼツボーしたぶん、愛おしくなる。

表面の音のからくりに気付いたら、苦しくても楽になる。
なぜもっとはやく気付けなかったのだろう。
時間は戻らない。
でも後悔したってはじまらない。
後悔のなかにさえ、微々たる妙音を聴くことが出来る今は、前に進むしかないのだ。
かなしいな。
うれしいな。

音楽ってそういうことなんだろうなあと漠然と思う。
寿命って、音を聴き続けられる時間のことかなと思う。
熱意を持続するのは厳しいけれど、幸せなことだと思う。
楽しいって、楽じゃない。
楽じゃないけど、コクがある。

贈る言葉

愛しい人に贈る言葉に
赤い花と
白い風添えて

愛しい人に伝えられたら
わたしは今を
捨ててゆきましょう

青い涙
緑のうた
唇に触れてる桃色の指先

愛しい人に贈る言葉は
どこにでもある塀のひび割れ
のびゆく季節たちのぼる水蒸気
さっきまで降っていた柔らかな雨

照りかえす空
重なる薄い若葉
じゃれあうこども達の
ぶつかりあう傘

クリーム色の薔薇に
町の音はほころび
歩いてる歩いてる歩いてる

語らいの路地
苺のジェラート

横断歩道はいつも白黒

台風の目

寿司ネタは小ぶりなのが好き。
寿司飯も小ぶりに握られてるのが好き。
押し寿司めっちゃ好き。
葉っぱに包まれてるような薄っぺらい押し寿司なんかもう最高。

餃子もちっちゃいのがすき。
麩も。
天敵の葱ですら、京都の市場でしかお目にかかれない超〜〜〜〜〜細かいピンピンの小葱はたまらなく好き。あれ細〜かく切ってお吸い物やら豆腐やらにこんもり乗せる瞬間はエモイワレヌ快感が襲うのだ。
感触も、見た目も、たまらにゃい。
葱独特の苦手な臭いとはちょっと趣の違った、葉っぱの香りがする。

サンドイッチも、小さいカットが好き。
果物も小さいカットか好き。丸かじりが一番おいしいんだけど、カットするなら小さくが好き。

新ジャガも小さいのを丸ごと茹でるのが好きだし、小粒の苺なんて見つけたら「君たちうちの子になるよね?美味しいジャムになりたいよね?」ほとんど誘拐。抗えない衝動に駆られる。


なのですが、なぜか、納豆だけは、大粒がいい。
しかも極大粒がイイ!噛むときの食感がたまらにゃいのだ!
小粒とかひきわりも、それぞれ良さがあるし、出されたらもちろんよろこんで食べるけど、
心の奥底では、「大粒よー!」と叫んでいるのだ。

もろぽろ

母への感謝。
ひとつでてくると、ぽろぽろとでてくるもので、
つねひごろ毎日食事を作ってくれ続けてくれたこととか、
誕生日にオイルフォンジュをしてくれたこととか、
レモン皮の入ったクッキーを焼いてくれたこととか、

食べ物に関することばかりだけど

感謝が浮いて出て来る。

もちろん今までだって頭でわかっていたのだけど
それがなんだいっていうきもち
あんたがわたしにした仕打ちは、そんな生易しい形で癒えるようなことじゃあないんだ!みたいな強気なきもちにかき消されて、カスみたいになってたというかんじなのかもしれない。

そういう強気な拒否の感情が間違ってるとは言わない。
それがなかったら、わたし生きて来れてないから

ベールが剥がれていく時期が到来したのなら
それを拒否するのは自分を甘やかすことだから
かつて母が自分を逃げた様に、自分は自分をにげてはいけないと思う。

母がどうだったから、とかいうのは、筋違いなんじゃないだろうかという気もするけど
今はどうしても、そこに吸い寄せられてしまう。
最初はそういった心の手すりも必要だと思う。
立てるなと思ったときは、しっかり手放そうと決めて、今はしっかり掴んで立ち上がれば良いのだろう。

いろんなものにうちのめされて気弱になって翳りのある笑顔になってしまった今までを
そっとそっと、だけど確実に打破していく
40歳かあ。
遅いといってしまえば、未来は塞がる。
しょがないだろ。そのくらいかかったんだから。
いっしょけんめーやって、もがいてここまできたんだから。
認めてあげよーよ。自分のこと。
早いとはいえないけど、今があるなら、それに打ち込んでいくしかないのである。
である。であーる。
頭をかすめる。ああ今24くらいだったらなって。
しかしそんなこと言ったってはじまらないのであーる。
24の自分は、病みに病んでいたのであーる。
その時期があったればこその、今なのだから。

巻き返しは半端なことでは遂行できない。
いままでのもがきも半端ではなかったのです。
今更なにを恐れることがありましょう。


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