変化①
『プチトマトの湯むき』
……………
カジュアルなフレンチレストランで友人とご飯食べたら、
サラダにプチトマトが一ヶ君臨していた。
なんかマットだなと思ったら、湯むきしてあった。
そしてたぶん、ごく薄味なだしか、オイルか、浸けてあったのだと思う。
感激の美味しさでした。
独特の「プチッ」ビニール噛んだみたいな食感ではなく、「ざくっ」。繊維の恩恵を歯で感じることができます。
トマト独特の青臭さはなく、ただただ甘く柔らかく、乙女のような酸味がちょっぴり覗く。
う〜んとってもフルーティー*食べられる宝石*ってかんじ〜*
これは、トマト嫌いの息子も、きっと美味しいっていうような気がする!
帰って、早速、茹でてみた。
一瞬で皮が弾けて面白い!長湯は無用。
あとは皮を取り除いて、タッパーに入れるだけ。
皮がつるつる外れるのがまたおもろい。
タッパーには、
めんつゆ希釈液でも
塩少々のオイルでも
なんかハーブとオイルでもなんでもよいと思う。
冷やして、めしあがれ。
単独でももちろん、ひややっこ、焼き魚に、ちょっとしたつけあわせにもなりまする。
ビールや日本酒のおともに、モッツァレラチーズと合わせて、いかがっすか*
最後は浸け汁もろとも、冷製パスタなんかにババンと使ったら、夢の国に飛べるでしょう。
そういえば、コユビトが「トマトは湯むきに限る」って断言していたなあ。
またまた〜グルメちゃんは味覚が敏感なんだから*くらいに、言葉尻だけ聞いて、ちっともなびいてなかったわたし。プチトマトがそんな劇的に美味しくなるわけないじゃない。なんて思ってた。
ごめんよー。まさかほんとに、こんな美味しくなるとは思ってもみなかったんだもの。
人の話は先入観なしに、まっさらな気持ちで聞くべきだわ。
プチトマトとの出会い自体があまり幸せな形じゃなかったからなあ。
無理矢理食べさされて、しかも美味しくなかったのに吐き出させても貰えなかった。
という切ないシーンが思い起こされます。
もしかして、脳の片隅で、プチトマト美味しいって認めたくないってケチンボなこと思ってる小さなわたしがいたのかもね。
彼によると、関西のほうでは、トマトの冷やしおでんなるものがあるらしい。
たぶん、この湯むきの、もっと品の良いバージョンなのだと思う。
おでん自体が、普段わたしが知ってるものとはちがうものらしいのだ。
具をこべつにくつくつと煮てある小料理らしい。
いわゆる一般的なおでんは「関東炊き」っていうんだって。
って、なんでおでんていうのだろう。
おでんなべが四角く、田んぼの田の字みたいに、くぎってあるからかな?
おもしろいサイトみつけた♪
おでん博物館
いろいろあるのだなあ。
インターネットってすごいや。
さて、息子は湯むきしたプチトマトを食べるのか?
「だまされたと思って一個お食べよ」
という私の顔色をうかがいながら、おそるおそる一粒、口に入れ、噛む…
目をきゅうっとつぶって、頭をふりはじめました。
「どうした、あかんかったか?出せ出せ!」万一のためにレスキュー小皿を用意していたわたしの手をはらいのけ、
「お〜〜いし〜〜〜〜い!!!」
とちゃぶ台の前で箸を震わせていました。
<証明>
生トマトと、湯むきトマトは、べ・つ・も・の*
変化②
『近所のこどもたちと友達になる』
…………
こないだのこどもの日から、近所の子供と親しくなり、ずっと一緒に遊んでいる息子。
越して来て一年、なかなか仲良くなる機会がなかったけど、近所の子がひとりでサッカーボール蹴ってたので「一緒にやらない?入れてくれる?」って声かけてみたら、一瞬でうちとけた。
子供の素晴らしいところよね。
「やろうぜ」「うん」「じゃあけるよ」「よっしゃー」
前置きも語尾もいらない、真ん中のみのつきあい。
「またね」「うん」「あしたもあそべる?」「たぶん」「ばいばい」「ばいばい」
大人は、こういう子供の優れてるところを、今更といわずに積極的に見習うべきだと思う。
家の前の路地は狭いのだけど、抜け道でもあり、結構車が通るのだ。
あぶないので、たまに様子をみに表へ出る。
きのうは混ぜてもらって、いっしょにルールを考え、障害物競走をやった。
こどもの笑い声って、この世でいちばん美しいかも。
変化③
『家庭菜園』
…………
農協の直売会に行き、野菜苗を買って来て、栽培し始めました。
栽培は、苦手です。
内心がじくじくするの。
枝を掻き取ったり、支柱を立てたり、受粉させたりっていうことがすごくつらい。
うちの親はまめに園芸やるひとたちだった。
野菜じゃなくて花だったけど。
後ろ姿を暗い気持ちで見てた。
ちぎったら、痛いよ。
はがいじめは窮屈だよ。
その子の将来をあなたたちが決めないで。
人間の横暴だって思っていた。
栽培される側に、自分を投影してしまうのだ。
私の五官識には、植物の喜ぶ気持ちが見えなかった。
自然のままにしてあげてよって思う自分の思い込みがつよすぎて。
種を取る段階から、人の手が入ってるわけだ。
苗になるまでにもたくさんの綿密な人の手が入っている。
それを仕事にしているコユビトを通じて、ほんの少し、その大変さや、作業にたずさわる人たちの、植物に対する愛情がわかってきたから、ちょっと、やってみようと思い立ちました。
栽培にあたっては、やっぱりきちんと手を加えないと、作物としては、うまく生きてけないようになってるんだろうなと思う。
枝などを掻き取るのは、散髪やひげそりのようなもので
支柱をたてるのは、まだうまく歩けない我が子に手を添えるのとおなじことで
受粉を手伝うのは、せっかく育ったことを、充実した集大成をもって、実感してほしいって応援すること…
そんなふうに、考え方を鞍替えしてみた。
不慣れだから、すぐにまた暗い方へ引っ張られるけれど、
自然にっていっても、私自身自然に育ったのかと自問自答すれば答えは明白なこと。
美容院にいくでしょう。
おいしい料理を好むでしょう。
音楽も恋も大切じゃないですか。
本人ののぞむようにということは、放置することではないですもの。
必要な手助けを、必要なときに、必要なだけ施すこと。
それに、人間の手は神の手じゃない。
どんなに届けようとがんばったって、うまく育つ育たないは結局自然の算段だものね。
努力というのは、裏も表も、自分のためではないのかも。
そんなふうになれたら気持ちいいだろうなあ*
気持ちを解放したい。
なにげない思い込みのひとつひとつが、自分をへこませる。
自分で自分をへこませてるなんて、バッカみたい。
たとえば植木鉢栽培な時点で、自分は植物をこんな小さいとこに閉じ込めて、まごうことなく横暴だなんて思ってしまう。
それはそのまんま、自分が親の枠のなかに閉じ込められているからです。
親にされたアレを、自分も他に対してやっているって思ってしまう。
物事をはかるときって、どうしても自分の経験と照らし合わせて比較判断しますよね。
自分の体験が貧しいものであればあるほど、選択肢もおのずと狭いものになりがちなのです。
自分に豊かな経験がある分野と、ボロボロに痛んでる分野では、雲泥の差があります。
育てられること。
愛されること。
そういう分野でわたしの中心は非常に弱い。
愛情や命に関わるその分野は、わたしの生き方をのものを束縛する。
振り払っても、振り払っても、どくどくと生き物のように泥が噴き出して来る。
追っ手から逃げたい。
追っ手にも施したい。
ほんとうのぬくもり。
ほんとうのきもち。
暗い過去に、この先も閉じ込められ続けるのかい?
閉じ込めたのは他者でも、
出たいなら扉は自分で開けなくちゃはじまりません。
なんで自分でやらなきゃいけないのって、泣きたくなるきもち。
でもそれじゃだめだ。
理不尽きわまりなくても、そこでドアをあけなければ、魔物の思うつぼです。
いちばんの仕返しは(?)どのような過去がわたしを縛りつけようと、軽やかに自由になって、しあわせになることです。
自分の施された毒に縛られて、明るい未来への施しと毒を混同してしまう。
終わりもはじまりもない重たい道。
行くべき先はどこなのか。
自分に取って必要なことは何なのかを見る機会を奪われてきたから、参考になるものが目の前にあっても、気付かなかったり、聞き逃したり、悲観して見失う。
湯むきプチトマトの一件だって、そうなのよね。
視点がのっけから建設的じゃない。
いや、視点になる前段階から、なにかこう、行く手を阻むものがあるのだ。
地道だなあ。
栽培そのものが、自分をとリまく社会の縮図っていうか、社会に対する自分の思い込みの縮図なのかもしれない。
どこまでが愛情で、どこからが横暴なのか。
大切に扱うとは、扱われるとは、どういうことなのか?
植木鉢のなかの自分(苗)に問いかけてみようと思っています。
現実的なアドバイスは、いろいろなサイトもあるし、近所の家庭菜園やってる人にも聞ける。
農協も近いし、農家に直接訪ねてもよいと思う。
コユビトにも。
いろいろ参考にさせてもらいながら、あたたかい栽培をしようと思って、今朝も水をやりました。
そのうち肥料もあげられるはず。
かならず、収穫を得るぞー!
変化④
『調律』
…………
今年もマイフェイバリットピアノ、ゴトウくんの調律、ぶじに終わりました。
今回は、たくさん狂っていた。
いっぱい歌ったんだね。ゴトウくん*
ようやく、ゴトウくんにお喋りをさせてあげられるようになれたかね。
長かったね、ゴトウくん*
ゴトウくんとは、18年のおつきあい。
調律師のダンディー岩尾さんとは、16年のおつきあい。
いまだもって、よくわからないお人なのです。
年月とともに、いっこうに距離が縮まらない。
調律の2時間、一年に一度の逢瀬だからか?
いや、ひとえに岩尾さんが変わり者なんだろう。
毎年なにかひとつ、発見する。
今年の発見は、
『岩尾さんは、意外と甘いものがお好き』。
20年ちかくおつきあいして、こんな初歩的発見事項。トホホ。
いっつもすっごいスリル満点なんです。
お茶うけなににするか。
今回はけっこう、冒険してみたつもりだったのでした。
洋風の薄皮どらやきに、桜餡と生クリームが適量挟んである和風洋菓子『桜ブッセ』。
桜の時期限定。
国立マロニエだけで製造販売っす。
淡々と召し上がって、帰られた。
あんまりお好きじゃなかったのかなあと、やや寂しげに思っていたところ、
後日、岩尾さんを紹介した他のお宅の方から、
「岩尾さんて、餡コものだいすきよね。毎年がっつり食べていかれるよねえ」
ってお話があって、えーっなんだ!そうなの!?知らなかった!って大爆笑。
美味しかったんだったら、一言ゆって、にっこり笑って下さい。お願いします、岩尾さん。
そんな掴めない岩尾さんがだいすきです。
これからも、お元気で*
調律末永く、お願いします。
変化⑤
『黒髪』
…………
数ヶ月ちょっと赤めの髪にしてたのを、もとの色に戻した。
わたしって、どんな髪が似合うんだろう。
いまだにわからない。
鏡みるたび苦悩する。
めんどっちい。
この煩悩から抜け出たくて、坊主にしたこともあります。
つんつるてんじゃないけど。
でもだれがどうみても、坊主だった。
はさみでカットしてもらってたので、美容師さん大変そうだった。
とっても上手なひとだったなあ。
親の介護で地元にもどるということで、退職していった、凄腕美容師さん。
名手は、有名じゃなくたって、そこここにひっそりキラリと生息してるものなんだすよ。
鋭い感性と爪は、他を引っ掻くためじゃなく、自分を磨くためのもの。
磨かれた自分から発される生産物が、この世を照らすのだ。
地元で、切っているかなあ。
切ってたらいいなあ。
わたしも引っ越しながら、弾いてますよって伝えたい*
…………
闇が光を創り、光が闇を創り、空を青くして白くして、真っ赤に震える母なる海に還る。
日々発酵。
日々変化。
自由自在に、お互い生きていく。
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